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スタジアムに行こうっ!観戦日記2000シドニー五輪直前!「ROAD TO SYDENY」
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シドニーオリンピック直前!今まで追いかけてきた僕たちのオリンピック代表について
「Road to Sydney」

 ここ2年、僕らが追いかけつづけ、応援しつづけてきた日本オリンピック代表。今の"最強"と呼ばれるこのオリンピック代表がホントに強いって言うのは、このHPでもさんざん書いてきました。その最強集団がいよいよ今までの集大成とも言えるオリンピックに臨みます。初戦9月14日、南アフリカ戦をかわきりに17日スロバキア戦、そして20日ブラジル戦。4年前のアトランタ組が起こした"マイアミの奇跡"を再びって思うファンは僕だけじゃないはず。南アフリカ戦までひと月を切り、メンバーも決まり、んでヒデも代表に合流する。2日には大阪長居でクウェート戦、5日国立でモロッコ戦(これはもちろん行ってきます)、おちサークルの人、このHPを見てくれてる人は「なにを今さら…」って話しですが、僕の大好きなオリンピック代表のこれまで、そんなことを書いてみます。オリンピック代表をあまり知らない人はこいつを読んでテンション高めて下さい!

 '98年4月5日、シドニーオリンピックを目指す日本五輪代表がJヴィレッジで初めての合宿を敢行、中心になったメンバーは'97年のワールドユースでベスト8に輝いたメンバーであった。ベスト4を賭けたガーナ戦でゴールデンゴール負けを喫して、ユースでは初めてのベスト4を逃した。その悔しさを忘れない若い選手たち、「シドニーで、今度はU‐23で借り返す」そういう意気を持った彼らを引っ張ったキャプテンは宮本恒靖であった。今の最強集団のキャプテンだ。この時の監督は2ヶ月後にフランスW杯をひかえた岡田監督。4年後の韓国・日本共催W杯の中心になるであろう選手たちは、この時の岡田監督にはどううつっていたのだろう?日本がワールドカップ初出場に沸く中、4年後の主役たちはオリンピックに向けてスタートをきった。

 '98年10月、始動してから半年、ずいぶんと長い沈黙を置いて再び集まった五輪代表。この時、初顔合わせとなったのがフィリップ・トルシエ監督。サッカー協会はトルシエのA代表および五輪代表兼任を決断した。フランスの赤鬼である。28日、長居でのトルシエ初采配の対エジプト戦を前にA代表との対面もすませたトルシエ監督は「能力は五輪代表の方が上だ」と公言。「監督がそんな事言っちゃって…どうかな〜?」って思うけど、でもそう思っているのはファンもまた、そして僕もなのです。またこの頃、U‐19代表、アジアユース。小野、高原、稲本、本山、中田…、さらに若い原石たちが難なくワールドユースの出場権を獲得。が、グループリーグ、決勝戦でライバル韓国に連敗。この直後、サッカー協会はトルシエにユース代表の兼任も打診した。

 '98年11月、オリンピック代表の初めての実戦、強敵・アルゼンチン戦を前にトルシエはアジア大会の五輪代表での参戦を英断した。11月23日、対アルゼンチン戦、満員の国立で中村俊輔の芸術的ループシュートが決まった。この時はまだ俊輔がこんなにいい選手だなんて思ってなかったなぁ。まだまだチームとしての未熟さ、フラット3も危なっかしかったと言われていた中、それでも南米の強豪を下してしまったこのチームに、A代表相手でもやれるんじゃないか?そんな期待を抱いたのは僕だけではなかったはず。しかし、気を良くしたこチームで待っていた現実は…。

 舞台はタイ。A代表のアジア最高峰の大会において日本五輪代表はグループリーグで1勝2敗。やはり韓国相手に完敗を喫したのであった。そりゃフル代表でも勝てないんだもんね…。チェヨンスは「まるで子供を相手にしているようだった」と言ったとか。…。

 '99年4月、ナイジェリア。ワールドユースの準優勝。東洋の弱輩国、日本が世界大会2位。前回、ベスト4の壁を破れなかった日本がついに!決勝、対スペイン戦で0−4と大敗を喫したものの、これは間違いなく日本サッカー初の快挙であった!伸二が出れていればなぁ…。いよいよ始まるシドニーオリンピックアジア予選を前に、さらにもう少し若い代表のこの結果に僕らサッカーファンはどれだけ心踊ったことだろう。

 5月。アジア予選を控えたオリンピック代表に、世界2位のU‐20が加わる。中村俊輔は年下のタレントたちの加入に危機感を覚えたと言う。5月12日、まだユースの疲れの残る小野、高原たちの出場はなかったが、対オーストラリア戦、0−1で敗退。いまいちであんまり覚えてないんだよね…。

 6月、7月。アジア1次予選。実力から言っても楽勝の試合ばかりだ。トルシエにとっては選手たちのテストにはもってこいのカードであっただろう。香港ラウンドから日本ラウンド(対ネパール、対マレーシア、対香港、対フィリピン)、8戦全勝。楽勝の試合ばかりであったが、ボンバヘッド仲沢、FWの平瀬、吉原の大活躍!ずっと控えであったGK曽ヶ端はゴールマウスに立ちつづけた。ここでファンに名前を売った選手もたくさんいた。まさに今まで光を浴びる事のなかった選手たちには大チャンスの場であっただろう。1次予選最終戦、フィリピン戦での小野伸二の大怪我。日本ラウンドの最中、柳沢がホテル抜け出し密会。こんなバカバカしい事件もあって、同時に行われていたパラグアイのコパ・アメリカへの吉原の緊急召集など話題も多かった。全勝で最終予選にこまを進める若い代表に対して、コパ・アメリカで全敗、A代表はあいかわらず不甲斐なかった。A代表で結果の出せないトルシエの風当たりも強かった。

 アジア最終予選の組み合わせが決まった。Cグループ、タイとカザフスタン。宿敵・韓国、アラブの強国と当たらなかった恵まれた組み合わせといえるだろう。ひと月後に迫ったアジア最終予選を前に宿敵であり、2002年W杯を共同開催する最も近い国、韓国との壮行試合が決まった。

 U‐17、U‐20と2世代にわたり日本は韓国に勝った事がない。オリンピック代表においては40年前に勝ったのが最後だそうだ。そんな昔、だれも覚えていない…。最終予選を控えての最終調整、これまでの壁を打ち破ってほしい。そんな中、中田英寿の参戦が決まる。世界で活躍する日本の司令塔の五輪代表参戦。サポーターの期待も高まるが、このチームでヒデとプレーした事があるのは宮本だけ。いくらセリエAでプレーするヒデとはいえ、今まで1次予選からずっと戦ってきたこのチームにすぐ溶け込めるものなのだろうか? 9月7日の国立競技場、対韓国戦、そんな不安は吹き飛ぶ事になる。4−1、圧勝!40年間勝てなかった相手にこんなにも大勝できるものなのだろうか!!そしてアウェイ、場所をソウルに移して韓国との第2ラウンド。この試合にはヒデもいない。韓国も負けちゃいけない相手にしかもホームでの2連敗は許されない。そんなモチベーションの韓国相手にも日本はまたも勝ってしまう、1−0。40年の溝は埋まった!ヒデの参加を機に明らかに五輪代表は総合力を増す。最高の状態で日本はアジア最終予選に臨むことになった。

 10月9日、カザフスタン、アルマトイ。初戦にして最大の難関と言われたアウェイでのカザフスタン戦。悪いグランドコンディションの中、ヒデが先制のミドルを突き刺した!やっぱりヒデがやってくれた。後半、やはりヒデからのCK、今度は稲本!最大の難関を2−0で乗り越えた。

 10月17日、国立競技場。対タイ戦。後半に日本の攻撃が爆発!3−1、快勝。

 第3戦、再び国立競技場、対カザフスタン戦。勝利、最悪引き分ければ、日本のホームでの世界大会出場決定は初めてとあって、国立は異常な盛り上がりを見せていた。そんなプレッシャーもあったのだろうか?1次予選から数えて12連勝中の日本が初めて先制をゆるした。1点リードされたままハーフタイム。後半、トルシエの見事な采配も光り、ヒデからのクロスに平瀬が得意のヘディングで同点。俊輔はこの日、初めてこなしたボランチからの平瀬へのロングパス、逆転。試合終了まじかの見事な逆転に押し寄せた5万を超えるサポーターは熱狂する。そんな中、いい位置でのFK。ヒデと俊輔が並んでいる。ん?僕のとこからでもちょっと見えました。ふたりが何かしゃべっている。のちにこのオリンピック代表を語るうえで最も有名なシーンですね。熱狂したサポーターの「ヒデコール」の中、その左足から蹴られた放物線はまさに「Road to Sydney」であった!3点目!あまりに見事な逆転勝利に僕たちも興奮しすぎてもうよく覚えていません。とにかく最高の試合だった!!日本の2大会連続、オリンピック出場が決まった。

 数日後、消化試合となったバンコクでのタイ戦も6−0とまるで1次予選かのような圧倒的な内容で勝利した。

 2000年、日本代表の主役はオリンピック代表からA代表へと写る。カールスバーク杯、アジア杯1次予選(マカオ)。これらの試合もトルシエの「五輪代表の強化も兼ねる」と言う意味合いがふんだんに盛り込まれた。

 3月29日、対ニュージーランド戦。4−0の圧勝。しかしこの時、腰の手術でフラット3の体現者宮本が参戦を辞退。センターバックは松田がとる。神戸で行われたキリンチャレンジ中国戦、A代表でも松田はセンターバックを勤めた。ずっとこの素晴らしいチームを引っ張ってきたキャプテン宮本がここで離れて行ってしまうのだろうか?

 6月、キリンカップ、対ボリビア戦。宮本が帰ってきた。A代表のデビューをはたし、五輪代表をずっと引っ張ってきたキャプテンがA代表のラインを統率した。この試合、柳沢が2得点、明らかにA代表においても五輪代表世代が輝いていた。ツルツル頭になった小野伸二も大怪我から復活、ついに迫ったオリンピックを前に役者がそろった。

 2000年に入ってオリンピック代表の試合は3月のニュージーランド戦のみである。がフランスに善戦したハンサンU世杯、キリンカップ。これらのA代表戦もトルシエにとっては、オーバーエイジ枠をふまえたオリンピック代表枠の選考であったのだろう。シドニーへの切符は18枚、U‐23に限定すればオーバーエイジ枠を考えるとたった15枚。サバイバルである。…そして2000年8月、シドニーオリンピック日本代表が決定した。

 GK 楢崎 正剛 76.04.15(名古屋)185・76
    都築 竜太 78.04.18(G大阪)185・81

 DF 森岡 隆三 75.10.07(清水) 180・71
    宮本 恒靖 77.02.07(G大阪)176・70
    松田 直樹 77.03.14(横浜) 183・78
    中沢 佑二 78.02.25(V川崎)187・78
    中田 浩二 79.07.09(鹿島) 182・74

 MF 三浦 淳宏 74.07.24(横浜) 176・69
    中田 英寿 77.01.22(ローマ)175・68
    明神 智和 78.01.24(柏)  173・67
    中村 俊輔 78.06.24(横浜) 178・66
    本山 雅志 79.06.20(鹿島) 175・63
    酒井 友之 79.06.29(市原) 170・62
    稲本 潤一 79.09.18(G大阪)181・75
    西  紀寛 80.05.09(磐田) 175・65

 FW 平瀬 智行 77.05.23(鹿島) 183・72
    柳沢 敦  77.05.27(鹿島) 177・73
    高原 直泰 79.06.04(磐田) 181・75
 このメンバーで日本はいったいどんな素晴らしい試合を見せてくれるのだろう?そして2002年にはさらなる飛躍を期待してしまう。明日のクウェート戦、5日のモロッコ戦。ヒデの、俊輔の、宮本の、稲本の…、いちサポーターとして心踊ってしまう。そしてシドニーで、僕の大好きな選手たちは日本サッカーに新しい歴史を刻んでくれるんじゃないのか?きっとやってくれるだろう!!(やす)
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